2012年 06月 29日
原発を問う民衆法廷第2回大阪法廷 申立人・斎間淳子さんの意見陳述 |
6月17日に行われました原発を問う民衆法廷第2回大阪法廷での申立人・斎間淳子さんの意見陳述をご紹介します。少し長いですが、ぜひお読みください。
原発を問う民衆法廷については
http://genpatsu-houtei2.main.jp/index.html
をご覧ください。
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意見陳述書
2012年6月17日
申立人 斎間淳子
3・11の大災害から1年3ヶ月。未だに悪夢を見ているような重く暗い落ち込んだ日々を送っています。勿論、直接被害にあわれ、尊い命と故郷を失われた方々の深い悲しみや苦しみとは比べようもなく、映し出されるテレビの映像を見て、涙することしか出来ない私ですが、とりわけ、福島原発の惨状は、驚愕を通り越し、原発の傍で生きる者として恐怖と怯えが全身を覆いつくします。福島原発が伊方原発だったかもしれないのです。その思いは、原発の傍で暮らす住民誰も思っていることです。
いま、原発の近くで住む人達は、平然とした日常生活を送っていながら、緊張と焦りが続いています。その思いがいつもストレスとなって心が晴れる事はありません。まさに、これは人災でなくて何でありましょう。
福島の現実を知った時、不遜にも私がとっさに思ったことは「ああー伊方でなくてよかった」という事と、「次は伊方かもしれない」という怯えです。福島原発は、伊方原発崩壊のシュミレーションを現実のものとして突きつけたのです。
私の住む八幡浜市は、伊方原発から直線距離にして10kmです。ここで、私は「八幡浜・原発から子どもを守る女の会」を結成し、数人の友人たちと原発反対運動を続けてきました。格別専門的な知識があったわけでも、党派に属していたわけでもありません。原発マネーで生きる人々から白眼視され、推進派からと思われる数々の迫害を受け、何度もくじけそうになりました。しかし、ひたすら子どもや孫達に、安心できる故郷を残したいという思いだけで反対の声を上げ続けてきました。「安全神話はない」「人間に絶対はない」「人間の手に負えない放射能を子ども達に残したくない」「何百年も管理しなければならない放射性廃棄物を子どもたちに残すわけにはいかない」と訴えてきました。それなのに、福島原発が崩れて大量の放射能が大地や海を汚染する報道を聞いて「嘘だろう。信じられない」と声に出してうめいていました。心の底では、抗議するたびに聞かされていた「安全です。耐震性は守られています」という欺瞞に満ちた四国電力の安全神話をどこかで信じていたのです。信じたいと思っていた自分が居たことに唖然としています。国や県が大丈夫と言うのだからという気持ちが、私の心の底の底にあったのだと震撼させられています。それは、ここで生きねばならない者のはかない願望であったのかもしれません。
全国の原発は全て人口の少ない過疎地に造られています。伊方も例外ではありません。出稼ぎ者の多い限界集落です。伊方で使われる電気なんか知れています。全て都会に送る電気を作るためです。本当に安全なものなら、電気をふんだんに使う都会に建てるべきです。たいした産業もない、荒れ果てた貧しい伊方を何とか活性化させたいと町長も町議も考えていたのかもしれません。ばら色の産業であった原子力を誘致することに異議を唱えることはありませんでした。しかもそれが国策となると誰が反対できるでしょう。しかし、出稼ぎ者の中には、当時の美浜や敦賀で過酷な原発作業に従事していた者も多く、原発の危険性、放射能の恐ろしさを知っていました。だから、当然彼らは自分のふるさとを守るために反対の声をあげました。まだ多くの住民が原発の危険性を知らない時期でした。原発は権力とお金で弱く貧しい人々の命と人権を平気で踏みつけにするものであることをこの40年反対運動に対する姑息で卑怯な迫害を受ける中で身にしみて分かりました。それを国策として進めてきた国の罪は大きいと思います。
この地方でローカル紙を発行していた夫は、取材に行くたびに原発建設にまつわるさまざまな不正と住民無視の原発行政と隠されている放射能汚染の実態を話して聞かせてくれていました。土地と海の権利を求めて起こした「1号炉設置許可取り消し」の住民達の裁判は、日本で初めての反原発裁判でした。30数名の弁護団が組まれたにも関わらず、国策という大義名分の前に最高裁で敗訴しました。続いて2号炉裁判も起こされましたが、そのときは原告側にはお金もなく、本人訴訟として裁判が始まり、夫も原告団の一員に加わり22年間闘いました。40年に及ぶ伊方原発での住民達の闘いは、常に「核と人類は共存できない。子孫に禍根を残さないために」という信念で貫かれていました。「自分達は100年先には死んでいるが、この伊方の地は残る。ここに住む子ども達や孫達、その子孫達は生きねばならない。故郷を永久に住めない地にしてはいけない。原発を止めることが今生きる大人の責任である」という原告達の未来を見据えた強い思いでした。まさに、40年前に伊方で起こされた原発裁判は、原告が提出した準備書面を読んでも分かるとおり、今の福島を予測していたのです。福島原発事故は決して想定外ではありません。
原発が建設されようとしていた当時「土地買収が終わるまでは新聞報道はしない」という協定を記者クラブが県と四電と伊方町との間で結んでいて、周辺自治体はおろか、わずか10キロしか離れていない八幡浜市民も原発誘致など知る人が少なかったのです。マスコミは国や電力会社の発表だけを垂れ流す権力側に都合の良い広報機関でした。福島原発事故の時にも同じでしたが、私たち一般住民には、真実の情報をしらされないのです、原発が国策とし建設された時からそれは当然のごとく続いています。あの戦時下の大本営発表と同じ構造です。憤慨した夫は組合などにも異議を申し立てたりしたのですが、編集と関係ない部署に回されてしまいました。やむなく、夫は。八幡浜市民や伊方町住民に真実の原発報道をするべくローカル紙「南海日日新聞」を立ち上げたのです。私は、長兄が四国電力に勤務していた関係もあり、最初は原発反対運動に背を向けていました。
しかし、1981年、伊方原発の近海で魚の大量死が発生しました。海域20キロにわたり4ヶ月間魚が死に続けたのです。湾が白い腹を出した魚の死骸で埋め尽くされた光景を見た時、私はそれが子供たちの姿に思えてなりませんでした。魚は数日をおかず拾い上げられ、処分され、何事もなかったかのように原発は動いていました。県が組織した調査団も、原因らしい原因をきちんと追究しないまま、大量死は幕引きされました。それは伊方3号炉の設置許可が下りる目前だったからでしょう。地域住民の命よりも、四国電力と言う企業の利益が優先されたのです。魚の大量死は、その後今日まで7回も発生しています。私の原発反対運動はこの時から始まりました。
1988年には、全国で初めて伊方で出力調整実験が行われました。非常に危険なこの実験が行われるという発表がなされるやいなや、九州の女性から反対の声があがりました。伊方で実験に失敗すれば、九州も大きな被害を受けるという訴えは、チェルノブイリ事故の後だけに切実な現実味を帯びていました。私たちはすぐに「原発から子どもを守る女の会」を結成して伊方町にビラ配りにはいり、反対署名を集めました。それまで一部の人だけであった原発反対の声は全国に野火のように広がりました。全国にさまざまな原発反対の団体が生まれました。それは、それまでの組合運動や労組主体の運動とは異なり、子育て真っ最中の母親としての危機感、有機農産物や石鹸運動に目覚めた女たちが主体の柔軟で積極的な反対運動でした。
しかし、反対運動が激しくなると、それと比例するように、小さな町で反対運動を続ける私たちへの圧力も増してきました。出稼ぎでしか生活できなかった貧しい伊方の町で、働き口をようやく見つけた人たち、原発マネーで潤ってきた町の人たちは、反対する私たちを白眼視し始めていました。地域での住民の分断が始まったのです。八幡浜市にも伊方にも原発労働者の子どもたちや父親が四国電力に勤める子どもたちがたくさん住んでいます。私の子は、原発に勤める子どもたちと同じ学校で学ぶのです。「お前の母ちゃん、昨日テレビに出とったぞ。マイクでおらびよった。チラシを配りよった」と子どもは悪げなく、わが子に報告します。私は子供たちに、「原発で働いている人の子どもたちが一斉に欠席していたら、すぐ頭が痛いからと言って帰っておいでよ」と言って学校に行かせるのです。原発で事故があれば、従業員は逃げれなくても、子どもや家族には先に連絡して逃がすだろうと思っていたからです。それまで、何度事故があっても、四国電力が県に報告するのは数時間後か数日後であったのです。しかも、いつも「放射能漏れはありません」と型どおりの発表しかしません。私たちは電力会社や国の発表は信じられないとずっと思っていました。それは、現地で生きてきた者の必死の知恵なのです。四国電力の社宅を見張る事も続けました。このようにして子どもを育てなければならない事が教育だろうかと苦しみました。
南海日日新聞への嫌がらせの電話や郵便物も頻繁に続きました。「お宅のお子さんはお元気ですかねぇ」と早朝に電話で告げられるのです。子どもを毎日学校まで迎えに行かなくては不安で仕方ありませんでした。嫌がらせの手紙やハガキが毎日のように新聞社と我が家に送られていました。一度に50通の封書が投函されていたこともあります。ゴキブリの屍骸やカミソリの刃。使用済みのコンドーム、子どもや新聞社の写真、差別用語を書き連ねたもの。女性のヌード写真などなど山のように差出人不明の郵便物の攻撃にあいました。ある時は、ベットや茶箪笥やソファーなど大型の家具が何点もどさっと運び込まれました。私の名前で偽造した印鑑まで押して、名古屋の家具の卸問屋に注文されていたのです。法務局にも警察にも行きました。しかし、犯人はわかりません。警察も真剣に捜査をしてくれることはありませんでした。国は、国策に逆らう弱く小さな私たちを決して守ってはくれないのです。反原発情報室に相談すると、やはり同じような被害にあっている人が全国に何人かいらっしゃいました。女の会に賛同する人は多いけれど、表立って運動することはためらいしり込みする人が増えました。原発現地で1人の主婦が反対の声を上げるのは勇気がいる苦しいことでした。それこそが電力や権力側の狙いだろうと思いました。
ある日、元伊方町役場の職員で、推進の旗振り役だった男性が、一抱えもある「マル秘」の印の押された書類を新聞社に持ち込んできました。「原発を推進したのは間違いだった。これは関係書類だが、ワシが死んだら公表していい。あんたのところしか信頼して持ち込む先はない」というのです。それには、反対住民の一覧表も作ってあり、親族や友人まで書いてあり、反対者を崩すにはどうすればいいのか丹念に考察されて克明に記されていました。パソコンなどが普及していない時代です。それは、役場の元課長の手書きの文書でしたが、書かれた用紙にはどれも「四国電力」という文字が印刷されていました。かってドイツ工科大学のロベルトユンク氏が著した「原子力帝国」の内容の一場面-住民を管理、弾圧して原発推進を進めるということが伊方町でも行われていた-が実証されたのです。
亡夫の著書「原発の来た町」(2002年発行)のあとがきで、彼は次のように書いています。「伊方に原発が来て30年、原発反対運動は、原発立地周辺に居住する我々の生活権やプライバシー保護、さらには平和な社会生活と暮らしを獲得する歴史であったとも言える。「ばら色の産業」として入り込んできて原発は決して伊方を豊かにはしなかった。道路や建物は立派になったが、人々の心は傷つき、人間の信頼は失われた。虚構の町に変わりつつある。伊方住民は日々不安と怯えの中での暮らしを余儀なくされた。原発事故を絶えず心配しなければならない子ども未来は哀れである」これが南海日日新聞記者として取材してきた夫の偽らざる心境でした。ちなみに、南海日日新聞社は、発行以来ずっと四国電力から取材拒否されてきていました。
伊方1号炉は今年で35年、2号炉は30年を迎える老朽炉です。3号炉では恐ろしいプルサーマル運転が続いていました。ウランとプルトニウムを混ぜたMOX燃料を燃やしているのです。福島第一原発の3号炉がまさにプルサーマル運転をしていた原発です。被害の大きさは予測も出来ないし、収束の目途も立ちません。
伊方原発反対運動を始めた頃、6年生の息子がこう言いました「お母さん、ラーメン食べたら駄目とか、勉強しなさいとか言うけど、原発事故が起きたら一貫の終わりで。何もならん。俺は食べたいものを食べて、したい事をしとくぜ」
その言葉を聞いたとき、私は、大きなショックを受けました。原発は子ども達から未来への希望を摘み取っているのです。夢を語り、目的に向って生きる意欲を失わせていると思いました。子どもたちを刹那的で無気力にしているのです。私も石けん運動や食べ物の運動、平和運動を続けていますが、それらも一度の原発の大事故が起きれば全てが無に帰します。人間の生きる希望を根こそぎ取り去る恐ろしい原発を私達は決して許してはいけません。原発は、現実に水や空気を汚染したり人の命を奪う前に、人間の心、特に子どもたちの心を破壊するものだと分かりました。
今、やっと伊方の3機の原発が止まっています。5月には全国54機の原発が止まりました。しかし、国や電力会社は、電力不足や経済問題をたてに再稼動を目論み、着々と準備しています。ストレステストで妥当であったと保安員は結論を出しました。ストレステストなど合格しようがすまいが、そんなことは関係ないのです。命より大切なものがあるわけがない。今後子どもの生きる大地や海より大切なものがあるわけがない。どんなに除染をしてみても、色も臭いも、味もない放射能は、今後何万年も消えはしない。東南海、南海地震は近い将来必ず来ると予測されています。伊方原発6キロの沖合いには、世界で有数と言われる活断層、中央構造線が横たわっています。この活断層の存在は伊方原発2号炉訴訟で、国側の証人も認めたのです。明日来るかもしれない大地震を私達は座して待つだけなのでしょうか。子ども達の未来を守ってはやれないのでしょうか。私は、不安と恐怖と緊張で心が張り裂けそうになります。決して正直に知らせられない報道に疑心暗鬼になりながら、何を信じ、どうやれば安心できる生きる術が見つかるのか模索する日々です。反対運動を続けながらも、原発を造らせてしまった。あの戦争を止めれなかったと、親を責めた私は、今子どもたちから原発を造ったのはお母さんたちじゃあないかと責められても仕方ありません。絶望感と喪失感ばかりが襲う今、もし希望があるとしたら、原発の恐ろしさを沢山の人々が知った事でしょうか。福島原発での大きな犠牲を真摯に受け止め、原発を止めること、原発のない社会に大きく踏み出す決断を世界中の人から沸き起こることではないかと思います。
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【補足】伊方原発の主な問題点
伊方原発沖に横たわる中央構造線
伊方原発から6キロの沖合いには世界有数の活断層である、中央構造線がある。伊方沖の海底をボーリング調査した高知大の岡村眞教授は「今後M8以上、1000ガルの地震を想定しなければならない」と発言。しかし、四国電力は「現在の耐震基準570ガルで十分」と言い切る。
プルサーマル運転に使用のMOX燃料の危険
伊方原発3号炉は、2010年3月からプルサーマル運転を開始している。つかわれている燃料は、プルトニウムとウランの混合のMOX燃料である。しかも、伊方の場合、ステップ2という高濃縮のウランが使われていて危険度はさらに大きい。またも使用済みMOX燃料の置き場はなく、当面伊方原発敷地内に置かれるという。当面は100年間なのか500年間なのか不明。
伊方原発の老朽化
1号炉は1977年運転開始で35年経過。2号炉は1982年運転開始で30年経過。圧力容器の劣化が進み、タービン架台のひび割れなど数々の問題を抱えている。大地震が起これば、脆くなった配管は破断する。
全国初の原発訴訟
国を相手取り原発設置許可取り消しの裁判を1号炉は16年、2号炉は22年争った。いずれも国策に取り込まれた司法により敗訴。裁判の中で争った全ての事象は、福島原発で再現された。
魚の大量死
伊方原発の周辺海域では過去に7階の魚の大量死が起きている。排水口から流される、通常の海水温より7度も高い温排水は、海の生態系を壊し、瀬戸内海は死に向かいつつある。
地すべり多発地帯
伊方原発の建つ地質は、三波川帯と呼ばれる地すべり地帯である。原発の下の結晶片岩はもろく割れやすい。細い半島には逃げ場がない。
住民の人権無視の原発建設
全国過疎地であるところにしか原発は建てられていない。出稼ぎでしか生活できなかった貧しい伊方の地が狙われた。大金で人の心を買い、地域を分断して建設はすすんだ。例え、大事故が起きても、人口の少ない過疎地なら、犠牲は少なくてすむという、権力者の身勝手な人権無視、差別が原発建設の過程には多く見られた。反対派へのむごい圧力も然りである。
原発を問う民衆法廷については
http://genpatsu-houtei2.main.jp/index.html
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意見陳述書
2012年6月17日
申立人 斎間淳子
3・11の大災害から1年3ヶ月。未だに悪夢を見ているような重く暗い落ち込んだ日々を送っています。勿論、直接被害にあわれ、尊い命と故郷を失われた方々の深い悲しみや苦しみとは比べようもなく、映し出されるテレビの映像を見て、涙することしか出来ない私ですが、とりわけ、福島原発の惨状は、驚愕を通り越し、原発の傍で生きる者として恐怖と怯えが全身を覆いつくします。福島原発が伊方原発だったかもしれないのです。その思いは、原発の傍で暮らす住民誰も思っていることです。
いま、原発の近くで住む人達は、平然とした日常生活を送っていながら、緊張と焦りが続いています。その思いがいつもストレスとなって心が晴れる事はありません。まさに、これは人災でなくて何でありましょう。
福島の現実を知った時、不遜にも私がとっさに思ったことは「ああー伊方でなくてよかった」という事と、「次は伊方かもしれない」という怯えです。福島原発は、伊方原発崩壊のシュミレーションを現実のものとして突きつけたのです。
私の住む八幡浜市は、伊方原発から直線距離にして10kmです。ここで、私は「八幡浜・原発から子どもを守る女の会」を結成し、数人の友人たちと原発反対運動を続けてきました。格別専門的な知識があったわけでも、党派に属していたわけでもありません。原発マネーで生きる人々から白眼視され、推進派からと思われる数々の迫害を受け、何度もくじけそうになりました。しかし、ひたすら子どもや孫達に、安心できる故郷を残したいという思いだけで反対の声を上げ続けてきました。「安全神話はない」「人間に絶対はない」「人間の手に負えない放射能を子ども達に残したくない」「何百年も管理しなければならない放射性廃棄物を子どもたちに残すわけにはいかない」と訴えてきました。それなのに、福島原発が崩れて大量の放射能が大地や海を汚染する報道を聞いて「嘘だろう。信じられない」と声に出してうめいていました。心の底では、抗議するたびに聞かされていた「安全です。耐震性は守られています」という欺瞞に満ちた四国電力の安全神話をどこかで信じていたのです。信じたいと思っていた自分が居たことに唖然としています。国や県が大丈夫と言うのだからという気持ちが、私の心の底の底にあったのだと震撼させられています。それは、ここで生きねばならない者のはかない願望であったのかもしれません。
全国の原発は全て人口の少ない過疎地に造られています。伊方も例外ではありません。出稼ぎ者の多い限界集落です。伊方で使われる電気なんか知れています。全て都会に送る電気を作るためです。本当に安全なものなら、電気をふんだんに使う都会に建てるべきです。たいした産業もない、荒れ果てた貧しい伊方を何とか活性化させたいと町長も町議も考えていたのかもしれません。ばら色の産業であった原子力を誘致することに異議を唱えることはありませんでした。しかもそれが国策となると誰が反対できるでしょう。しかし、出稼ぎ者の中には、当時の美浜や敦賀で過酷な原発作業に従事していた者も多く、原発の危険性、放射能の恐ろしさを知っていました。だから、当然彼らは自分のふるさとを守るために反対の声をあげました。まだ多くの住民が原発の危険性を知らない時期でした。原発は権力とお金で弱く貧しい人々の命と人権を平気で踏みつけにするものであることをこの40年反対運動に対する姑息で卑怯な迫害を受ける中で身にしみて分かりました。それを国策として進めてきた国の罪は大きいと思います。
この地方でローカル紙を発行していた夫は、取材に行くたびに原発建設にまつわるさまざまな不正と住民無視の原発行政と隠されている放射能汚染の実態を話して聞かせてくれていました。土地と海の権利を求めて起こした「1号炉設置許可取り消し」の住民達の裁判は、日本で初めての反原発裁判でした。30数名の弁護団が組まれたにも関わらず、国策という大義名分の前に最高裁で敗訴しました。続いて2号炉裁判も起こされましたが、そのときは原告側にはお金もなく、本人訴訟として裁判が始まり、夫も原告団の一員に加わり22年間闘いました。40年に及ぶ伊方原発での住民達の闘いは、常に「核と人類は共存できない。子孫に禍根を残さないために」という信念で貫かれていました。「自分達は100年先には死んでいるが、この伊方の地は残る。ここに住む子ども達や孫達、その子孫達は生きねばならない。故郷を永久に住めない地にしてはいけない。原発を止めることが今生きる大人の責任である」という原告達の未来を見据えた強い思いでした。まさに、40年前に伊方で起こされた原発裁判は、原告が提出した準備書面を読んでも分かるとおり、今の福島を予測していたのです。福島原発事故は決して想定外ではありません。
原発が建設されようとしていた当時「土地買収が終わるまでは新聞報道はしない」という協定を記者クラブが県と四電と伊方町との間で結んでいて、周辺自治体はおろか、わずか10キロしか離れていない八幡浜市民も原発誘致など知る人が少なかったのです。マスコミは国や電力会社の発表だけを垂れ流す権力側に都合の良い広報機関でした。福島原発事故の時にも同じでしたが、私たち一般住民には、真実の情報をしらされないのです、原発が国策とし建設された時からそれは当然のごとく続いています。あの戦時下の大本営発表と同じ構造です。憤慨した夫は組合などにも異議を申し立てたりしたのですが、編集と関係ない部署に回されてしまいました。やむなく、夫は。八幡浜市民や伊方町住民に真実の原発報道をするべくローカル紙「南海日日新聞」を立ち上げたのです。私は、長兄が四国電力に勤務していた関係もあり、最初は原発反対運動に背を向けていました。
しかし、1981年、伊方原発の近海で魚の大量死が発生しました。海域20キロにわたり4ヶ月間魚が死に続けたのです。湾が白い腹を出した魚の死骸で埋め尽くされた光景を見た時、私はそれが子供たちの姿に思えてなりませんでした。魚は数日をおかず拾い上げられ、処分され、何事もなかったかのように原発は動いていました。県が組織した調査団も、原因らしい原因をきちんと追究しないまま、大量死は幕引きされました。それは伊方3号炉の設置許可が下りる目前だったからでしょう。地域住民の命よりも、四国電力と言う企業の利益が優先されたのです。魚の大量死は、その後今日まで7回も発生しています。私の原発反対運動はこの時から始まりました。
1988年には、全国で初めて伊方で出力調整実験が行われました。非常に危険なこの実験が行われるという発表がなされるやいなや、九州の女性から反対の声があがりました。伊方で実験に失敗すれば、九州も大きな被害を受けるという訴えは、チェルノブイリ事故の後だけに切実な現実味を帯びていました。私たちはすぐに「原発から子どもを守る女の会」を結成して伊方町にビラ配りにはいり、反対署名を集めました。それまで一部の人だけであった原発反対の声は全国に野火のように広がりました。全国にさまざまな原発反対の団体が生まれました。それは、それまでの組合運動や労組主体の運動とは異なり、子育て真っ最中の母親としての危機感、有機農産物や石鹸運動に目覚めた女たちが主体の柔軟で積極的な反対運動でした。
しかし、反対運動が激しくなると、それと比例するように、小さな町で反対運動を続ける私たちへの圧力も増してきました。出稼ぎでしか生活できなかった貧しい伊方の町で、働き口をようやく見つけた人たち、原発マネーで潤ってきた町の人たちは、反対する私たちを白眼視し始めていました。地域での住民の分断が始まったのです。八幡浜市にも伊方にも原発労働者の子どもたちや父親が四国電力に勤める子どもたちがたくさん住んでいます。私の子は、原発に勤める子どもたちと同じ学校で学ぶのです。「お前の母ちゃん、昨日テレビに出とったぞ。マイクでおらびよった。チラシを配りよった」と子どもは悪げなく、わが子に報告します。私は子供たちに、「原発で働いている人の子どもたちが一斉に欠席していたら、すぐ頭が痛いからと言って帰っておいでよ」と言って学校に行かせるのです。原発で事故があれば、従業員は逃げれなくても、子どもや家族には先に連絡して逃がすだろうと思っていたからです。それまで、何度事故があっても、四国電力が県に報告するのは数時間後か数日後であったのです。しかも、いつも「放射能漏れはありません」と型どおりの発表しかしません。私たちは電力会社や国の発表は信じられないとずっと思っていました。それは、現地で生きてきた者の必死の知恵なのです。四国電力の社宅を見張る事も続けました。このようにして子どもを育てなければならない事が教育だろうかと苦しみました。
南海日日新聞への嫌がらせの電話や郵便物も頻繁に続きました。「お宅のお子さんはお元気ですかねぇ」と早朝に電話で告げられるのです。子どもを毎日学校まで迎えに行かなくては不安で仕方ありませんでした。嫌がらせの手紙やハガキが毎日のように新聞社と我が家に送られていました。一度に50通の封書が投函されていたこともあります。ゴキブリの屍骸やカミソリの刃。使用済みのコンドーム、子どもや新聞社の写真、差別用語を書き連ねたもの。女性のヌード写真などなど山のように差出人不明の郵便物の攻撃にあいました。ある時は、ベットや茶箪笥やソファーなど大型の家具が何点もどさっと運び込まれました。私の名前で偽造した印鑑まで押して、名古屋の家具の卸問屋に注文されていたのです。法務局にも警察にも行きました。しかし、犯人はわかりません。警察も真剣に捜査をしてくれることはありませんでした。国は、国策に逆らう弱く小さな私たちを決して守ってはくれないのです。反原発情報室に相談すると、やはり同じような被害にあっている人が全国に何人かいらっしゃいました。女の会に賛同する人は多いけれど、表立って運動することはためらいしり込みする人が増えました。原発現地で1人の主婦が反対の声を上げるのは勇気がいる苦しいことでした。それこそが電力や権力側の狙いだろうと思いました。
ある日、元伊方町役場の職員で、推進の旗振り役だった男性が、一抱えもある「マル秘」の印の押された書類を新聞社に持ち込んできました。「原発を推進したのは間違いだった。これは関係書類だが、ワシが死んだら公表していい。あんたのところしか信頼して持ち込む先はない」というのです。それには、反対住民の一覧表も作ってあり、親族や友人まで書いてあり、反対者を崩すにはどうすればいいのか丹念に考察されて克明に記されていました。パソコンなどが普及していない時代です。それは、役場の元課長の手書きの文書でしたが、書かれた用紙にはどれも「四国電力」という文字が印刷されていました。かってドイツ工科大学のロベルトユンク氏が著した「原子力帝国」の内容の一場面-住民を管理、弾圧して原発推進を進めるということが伊方町でも行われていた-が実証されたのです。
亡夫の著書「原発の来た町」(2002年発行)のあとがきで、彼は次のように書いています。「伊方に原発が来て30年、原発反対運動は、原発立地周辺に居住する我々の生活権やプライバシー保護、さらには平和な社会生活と暮らしを獲得する歴史であったとも言える。「ばら色の産業」として入り込んできて原発は決して伊方を豊かにはしなかった。道路や建物は立派になったが、人々の心は傷つき、人間の信頼は失われた。虚構の町に変わりつつある。伊方住民は日々不安と怯えの中での暮らしを余儀なくされた。原発事故を絶えず心配しなければならない子ども未来は哀れである」これが南海日日新聞記者として取材してきた夫の偽らざる心境でした。ちなみに、南海日日新聞社は、発行以来ずっと四国電力から取材拒否されてきていました。
伊方1号炉は今年で35年、2号炉は30年を迎える老朽炉です。3号炉では恐ろしいプルサーマル運転が続いていました。ウランとプルトニウムを混ぜたMOX燃料を燃やしているのです。福島第一原発の3号炉がまさにプルサーマル運転をしていた原発です。被害の大きさは予測も出来ないし、収束の目途も立ちません。
伊方原発反対運動を始めた頃、6年生の息子がこう言いました「お母さん、ラーメン食べたら駄目とか、勉強しなさいとか言うけど、原発事故が起きたら一貫の終わりで。何もならん。俺は食べたいものを食べて、したい事をしとくぜ」
その言葉を聞いたとき、私は、大きなショックを受けました。原発は子ども達から未来への希望を摘み取っているのです。夢を語り、目的に向って生きる意欲を失わせていると思いました。子どもたちを刹那的で無気力にしているのです。私も石けん運動や食べ物の運動、平和運動を続けていますが、それらも一度の原発の大事故が起きれば全てが無に帰します。人間の生きる希望を根こそぎ取り去る恐ろしい原発を私達は決して許してはいけません。原発は、現実に水や空気を汚染したり人の命を奪う前に、人間の心、特に子どもたちの心を破壊するものだと分かりました。
今、やっと伊方の3機の原発が止まっています。5月には全国54機の原発が止まりました。しかし、国や電力会社は、電力不足や経済問題をたてに再稼動を目論み、着々と準備しています。ストレステストで妥当であったと保安員は結論を出しました。ストレステストなど合格しようがすまいが、そんなことは関係ないのです。命より大切なものがあるわけがない。今後子どもの生きる大地や海より大切なものがあるわけがない。どんなに除染をしてみても、色も臭いも、味もない放射能は、今後何万年も消えはしない。東南海、南海地震は近い将来必ず来ると予測されています。伊方原発6キロの沖合いには、世界で有数と言われる活断層、中央構造線が横たわっています。この活断層の存在は伊方原発2号炉訴訟で、国側の証人も認めたのです。明日来るかもしれない大地震を私達は座して待つだけなのでしょうか。子ども達の未来を守ってはやれないのでしょうか。私は、不安と恐怖と緊張で心が張り裂けそうになります。決して正直に知らせられない報道に疑心暗鬼になりながら、何を信じ、どうやれば安心できる生きる術が見つかるのか模索する日々です。反対運動を続けながらも、原発を造らせてしまった。あの戦争を止めれなかったと、親を責めた私は、今子どもたちから原発を造ったのはお母さんたちじゃあないかと責められても仕方ありません。絶望感と喪失感ばかりが襲う今、もし希望があるとしたら、原発の恐ろしさを沢山の人々が知った事でしょうか。福島原発での大きな犠牲を真摯に受け止め、原発を止めること、原発のない社会に大きく踏み出す決断を世界中の人から沸き起こることではないかと思います。
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【補足】伊方原発の主な問題点
伊方原発沖に横たわる中央構造線
伊方原発から6キロの沖合いには世界有数の活断層である、中央構造線がある。伊方沖の海底をボーリング調査した高知大の岡村眞教授は「今後M8以上、1000ガルの地震を想定しなければならない」と発言。しかし、四国電力は「現在の耐震基準570ガルで十分」と言い切る。
プルサーマル運転に使用のMOX燃料の危険
伊方原発3号炉は、2010年3月からプルサーマル運転を開始している。つかわれている燃料は、プルトニウムとウランの混合のMOX燃料である。しかも、伊方の場合、ステップ2という高濃縮のウランが使われていて危険度はさらに大きい。またも使用済みMOX燃料の置き場はなく、当面伊方原発敷地内に置かれるという。当面は100年間なのか500年間なのか不明。
伊方原発の老朽化
1号炉は1977年運転開始で35年経過。2号炉は1982年運転開始で30年経過。圧力容器の劣化が進み、タービン架台のひび割れなど数々の問題を抱えている。大地震が起これば、脆くなった配管は破断する。
全国初の原発訴訟
国を相手取り原発設置許可取り消しの裁判を1号炉は16年、2号炉は22年争った。いずれも国策に取り込まれた司法により敗訴。裁判の中で争った全ての事象は、福島原発で再現された。
魚の大量死
伊方原発の周辺海域では過去に7階の魚の大量死が起きている。排水口から流される、通常の海水温より7度も高い温排水は、海の生態系を壊し、瀬戸内海は死に向かいつつある。
地すべり多発地帯
伊方原発の建つ地質は、三波川帯と呼ばれる地すべり地帯である。原発の下の結晶片岩はもろく割れやすい。細い半島には逃げ場がない。
住民の人権無視の原発建設
全国過疎地であるところにしか原発は建てられていない。出稼ぎでしか生活できなかった貧しい伊方の地が狙われた。大金で人の心を買い、地域を分断して建設はすすんだ。例え、大事故が起きても、人口の少ない過疎地なら、犠牲は少なくてすむという、権力者の身勝手な人権無視、差別が原発建設の過程には多く見られた。反対派へのむごい圧力も然りである。
by nonukes_shiga
| 2012-06-29 15:03
| フクシマ 原発
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